読後感その1:歴史な話「呉清源とその兄弟」

 先日某所に出張し、近くの古書店で購入した本がこれ。

 

呉清源とその兄弟 ―呉家の百年

呉清源とその兄弟 ―呉家の百年

 

 

帰りの車中にてほぼ読了した。

 inoueは囲碁をやらない。悲しいかな、見てもわからない。それでも呉清源は知っていた。

本書のテーマは、この文言である。呉家三兄弟の生きざまに、波乱を極めた日中関係が絡み合い、物語をなしている。

 

一人は家のために生き、

一人は祖国のために生き、

一人は才能のために生きた。

(p. 9)

 

 呉清源は1914年、北京の軍閥政府の官僚の三男として生まれる。本名を呉泉という。三兄弟は四書五経の暗唱という古典的な教育とともに、父から囲碁の手ほどきを受けることになる。一番若い呉泉が没頭し、幼いながらも頭角を現してくる。父は清から中華民国への時代の変わり目を乗り切ることができず、若くして亡くなってしまう。亡父のつてと呉泉の並外れた囲碁の才能で、呉家が食いつなぐことさえあった。「清源」の字は、亡父の仕えていた軍閥(段祺瑞)の肝いりでつけられた。呉清源自身、段祺瑞の人となりをこう回想している。

「将軍の得意としていた碁は、相手が囲った地の中に、いきなり石を打つという手でした。そして、相手の地の中で、小さく生きてしまうのです。それを『公園の中に小屋を建てる』と言ったのです。当時、日本は満州軍閥張作霖を支援していました。でも、やがて彼を爆殺し、後に満州国を作りました。段祺瑞将軍は親日家ではありましたが、日本の中国での振る舞いを見て、『小屋を建てるのはいいが、取ってはいけない』と考えていたのです。だから、囲碁でもそういう打ち方をしたのだと、後になって私はわかりました。彼は偉かったと思います」(p.62)

 

 北京の天才少年として取り上げられるようになった呉清源はやがて、囲碁を極めるべく日本に渡ることとなる。政治家をはじめ当時の日本棋界が受け入れ体制を整え、呉清源14歳にして呉一家が来日する。日中友好の架け橋となることも期待されてのことであり、彼の生き方を決めたイベントであったと言えよう。

「日本国民の熱誠あふれる歓待に対し、われわれは感謝のほかなしと思っている。われらは是を是とし、非を非とせねばならない。その意味において、呉清源のことに関する限り、われらはいかなる謝辞を重ねてもなお不十分である」(北京クリスト青年会による歓迎挨拶、1928年、p.92)

日中間が険悪になりつつあったとはいえ、このような挨拶がかわされるほどには節度があったのである。ただし日中関係はその後さらに悪化し、呉清源は中国にあっては「文化漢奸」呼ばわりされるようになる。

 

 じつは3兄弟のうち呉清源とともに来日したのは長兄の呉浣のみであり、次兄の呉炎は中国に残った。呉炎は亡国への危機感から学生運動に携わり、共産党の主張に傾倒していく。一方長兄の呉浣は明治大学を卒業し、満州国官僚として職を得ることになる。呉清源もまた、政治に巻き込まれていく。呉清源の来日によって、日本の影響下で暮らしを組み立てていく呉清源、呉浣と、救国運動をとおして中国共産党の活動に身を投じていく呉炎はいわばそれぞれに生き方を選択したのである。結果、三人が最後に一同に会したのは一九三六年(2.26事件の年)であった。満州事変を経て日中戦争が本格化し、さらに日本は真珠湾攻撃を経てアメリカとの開戦に踏み切る。

「昭和三年の来日以来、日中親善という使命を背負っている気持ちでいたのです。帰国は考えませんでした。棋士として日本に残るという私の考えは、母も認めてくれました」(呉清源、p.216)

 日本海軍の真珠湾攻撃のニュースを聞いて、日本全土が喜びに沸き立っていたとき、天津にいた呉炎はこれを嗤った。日本が全運をかけて大博打を打ったと思ったからだ。

(あのアメリカに日本がかなうはずがない。緒戦の勝利は単なる幕開きにすぎない)

 呉炎だけでなく、多くの中国人がそう感じたという。呉炎の友人は、

「期待できるのはこれからだ」と言った。(p.217)

 

 日本の敗戦後、長兄の呉浣は台湾で生活するが、満州国官吏であった事実を極力隠して生きていかなければならなかった。次兄の呉炎は、念願の中国共産党員となったものの反右派闘争から文化大革命に至る政治運動に翻弄され、安寧を得たのは文化大革命の収束した一九七六年であった。呉清源が長兄の呉浣に再会したのは一九五二年であったのに対し、次兄の呉炎に再会できたのは一九八〇年となっていた…

 

 この本が出版されたのは二〇〇五年、呉清源は二〇一四年に天寿を全うし、本書の主人公は(おそらく)「歴史上の人物」になりつつある。人生は短く、歴史は永い。

 一〇〇年まえに「囲碁をやるなら日本」と、呉清源は来日した。すべてが終わってみれば来日は「正解」だったのではないだろうか。翻っていま、日本で花開く才能とはなんだろう?