inoueのアメリカ経験−1

 inoueは2001年8月から2003年9月まで、企業派遣でアメリカの大学に留学していた。id:tsugo-tsugoのhaikuに触発されて振り返ってみる。

2001年8月 アメリカ入国。
 後にも先にもない、ビジネスクラスへのアップグレード。えらく贅沢気分で乗り入れた。

2001年8月末 留学先の日本人会にて。
“アメリカは、西海岸と東海岸で全然違いますよ。西海岸はクレイジーですね”

2001年9月11日。
 あの日。inoueはラボの実習で閉じこもっており、昼前に出てきたときに学生がたむろしてテレビにかじりついていた理由が飲み込めなかった。(WTCが崩れていく絵を見て、それが現実のものとは思えなかった。)結果、派遣元の会社への連絡も遅れた。嵐に渦中にあるものは、嵐に対して鈍感である、という実例でもあるし、危機意識がなかった、といいきっても良い。inoueが外交官に不向きなことを示した一例。
 のち、日本企業は軒並みアメリカ出張の禁止措置が出る。今日のswine fluに対する対応を見て、dejavu感を禁じ得ないのはinoueに限るまい。

2001年10月
 街行く車が、ことごとく星条旗を掲げ出す。
 アフガニスタン空爆はじまる。

2001年11月
 将来の妻に出会う@さるパーティー。日本では絶対に接点がなかったと、断言できる。

2001年11月23日
 Thanksgivingでは、軒並み店が閉まってしまうことを実感する。(蘆花@MassAve=広中平祐センセもご愛用だったらしい。2005年頃?廃業=は通常通り営業。CVSもしかり)

2001年12月
 Nutscrackerが、日本でいうところの忠臣蔵であることを知る。

 世話になっていた教授の前に、Ph. D. Candidateの学生とともにまみえる。自分の英語力のつたなさを思い知った。

2001年12月24日
 この日もまた、すべての店が閉まってしまうことを実感する。

2001年12月31日
 新年をNYで迎える。某所でいまは亡き筑紫哲也を見かけた。

2002年1月
 学会でLas Vegasに行く。ホテルの安さに感動する。・・・まもなくその仕組みを知るに至る。
留学生のビザ制度がこのへんで変更になった・・はず。それまでの"IAP-66"から、新しい書式にせいとの通達あり。

2002年2月
 展示会でLAに行く。ボストンとのあまりの気候の違いにショックを受ける。

2002年3月
 学会でNew Orleansに行く。今となっては、あのKatrina前であったことになる。

 イラク戦争始まる。

2002年4月
 ボストンにも春が来た。

2002年5月
 "Mission Accomplished"

2002年6月
 ケンブリッジ市内で結婚する。

2002年7月
 アメリカではじめての4th of July。バーベキューにおよばれ。

 Tanglewoodに行く。
・・・続く。

科学者の教育、ねぇ

 何日か前の大隅先生のエントリー:
2日目終了&科学者を育てるには

 inoueは大隅センセの普段ものされてるもの(含むブログ)を拝見し、尊敬申し上げているのだが、もっともらしいだけに違和感を引きずってしまうんだな、これは。 森羅万象何でもそうなのだろうけれど、割り切る、のは案外難しい。教育もしかり。教育される側がそもそも多種多様なのだから。
 大隅センセが、上掲のブログで引き合いに出されていた例はいずれも“渡り歩き”系であった。それでもって“専門教育前倒し”を斬っているわけだが、ちょっとそれは短絡ではないか。“専門教育の前倒し”に恩恵を受ける人たちだってあるわけだし(Feynman、Landau、Woodwardなんていう人たちは、たぶんそのような教育が活きる人たちだったのだろう)、そもそも皆が皆その“前倒し”プログラムに乗っかるわけではないだろうに。
“皆、それに乗っかるべきだ”、となる風潮は問題であろう。しかし、問題となるのはそのような風潮なのであって、専門教育の前倒し、というのは多様な“教育される側”に答えるひとつのオプションだと思うのだけれど。

 もう一つあった。
 教員の数を4倍にして・・・という気持ちはわからないでもない。しかし、それは学費の高騰として学生の負担としてはね返る、という点についてはいかがだろうか?

 いみじくもkaz_atakaがまとめていたが、

日本の大学の資金力のなさはどこから来るのか?:国内大学強化に向けた考察2
 
 アメリカのいい大学ともなれば、日本の大学の学費の10倍である。学生が将来の稼ぎをそこに充当するのである。それがworthである、といいきれる教育というのは、質とその効果において余程の覚悟が必要ではないか。しかも、この10倍の学費、は、否応なく格差の問題を引き起こすだろう。・・・根は深い。すっきりした“答え”は、難しい。

ホームページを立ち上げた

 前任者から引き継いだ学会の研究会のホームページを立ち上げた。なお、ビルダーはオーソドックスに(?)

IBM ホームページ・ビルダー13 通常版

IBM ホームページ・ビルダー13 通常版

のお試し版をダウンロードして用いた。休日にそんなことやるんじゃないよ、といわれそうだが、休日にやってよかった。何とか使えるようになった。

 ついでに、自分のホームページも開設した。自分の研究ネタはこちらに移していくことにする。

Fernando Lima

 昨年、Sarah BrightmanのCDがリリースされた。そのなかの“Ave Maria”がとても新鮮に聴こえた。

冬のシンフォニー(通常盤)

冬のシンフォニー(通常盤)

 この曲をduetしていたのがFernando Lima。カウンターテナーの歌手(日本で言えば米良美一にあたる。ただ、米良より若干声は低い、というかより男声に思える)で、スペイン語の歌が主。なお、この“Ave Maria”はFernando Limaのオリジナルらしい。

↓こんな感じ。なお、これはメキシコのテレビが元ネタ。

 なお、ちょっとメッセージ性が強い動画だが、カラオケに使うならこっちかも。歌詞がついているので。

(お気に入りと言えば、2番目の動画の真ん中(2分30秒前後)に出てくる”曇天にたたずむ聖母子像”、はよい。聖マリアの力強い母性がにじみ出ている。誰の絵なんだろう?)

 ここからはちょっと“英語の世紀”じみてしまうのだが、Fernando Limaが世に出たきっかけはSarah Brightmanとの共演であっただろう。(少なくともinoueにとってはそうだった)しかし、同時に彼が英語で歌を歌っていたら、ここまでinoueの共感、というか興味を引きつけたかどうかは疑問である。
 言い換えれば、英語(圏)で認知されるためのタグは、情報の発信強度として他言語ではない強さ、というかインパクトをもつ。しかし、そこで発信されるコンテンツは、必ずしも英語に束縛されなくてもよいのではないか、などと言うことも考えたりしている。

Succinic acid, C4 process, and acetonitrile

There have been some topics of my interest these days - I want to clip them here as my memo;


Bioamber to Build The World’s First Bio-Based Succinic Acid Plant in US


R&D on alternative feedstock is now "in" - In fact, there has been a timely critical review in "Green Chemistry" (from Royal Society of Chemistry) aiming how succinic acid could be transformed to chemicals we are dealing with;

Succinic acid from renewable resources as a C4 building-block chemical-a review of the catalytic possibilities in aqueous media
Clara Delhomme, Dirk Weuster-Botz and Fritz E. Kühn, Green Chem., 2009, 11, 13
http://xlink.rsc.org/?DOI=b810684c

The main topic is the list of the catalyst, mainly for hydrogenation of carboxylic acid group and for amination that gives corresponding alcohols and amines, respectively. I am just curious if "DNP Green Technology" is a subsidiary of DNP, DaiNipponPrinting.

They are focusing on succinic acid as it can be C4 feedstock. - From conventional feedstock (petroleum), MCC people has successfully developed brand-new-technology to obtain butadiene, as they have press-released;


Mitsubishi Chemical Develops Brand New Technology to Produce Butadiene


I have not studied the detail yet - this technology converts C4-raffinates, which has been mainly used as fuel, to butadiene. This process, using raffinates as chemical feedstock (not fuel), reminds me of alpha- and omega- processes developed by AsahiKasei - this process looks like FCC, as modified zeolite is used as the catalyst;


Commercial start-up of Omega Process facility


Not only among chemical industry but also among pharmaceutical industry, acetonitrile shortage is becoming an issue;


モノが届かない

A Solvent Dries Up

アセトニトリル・クライシス


Reading these blogs and comments, it seems that the shortage became visible in the US at first, then it expanded worldwide. Acetonitrile and HCN (!) is the byproduct of acrylonitrile production by ammoxidation;

CH2=CH-CH3 / CH3-CH2-CH3 + NH3 + O2 -> CH2=CH-CN (acrylonitrile), CH3CN (acetonitrile), HCN

Acrylonitrile is a feedstock for plastic/polymers, while CH3CN itself has its demands as solvent. (HCN is mainly consumed inside the plant (or inside the chemical complex) and it does not go to market as it is.)
These ammoxidation reactions are catalyzed by the different catalyst; propylene ammoxidation is catalyzed by the multicomponent mixed oxide catalyst (Mo and Bi is the "must" element - Mo-Bi-catalyst is sometimes called as "SOHIO catalyst, named after Standard Oil, Ohio - currently INEOS), while propane ammoxidation requires totally different catalyst, which has been commercialized only by AsahiKasei.


PTT Asahi Chemical to Build A New Acrylonitrile Plant in Thailand


Anyway, there is no doubt that INEOS has been hit by the economy slowdown (as the Big3 should be their major customer), then other companies worldwide has been also hit by the global depression that drags other motor companies including Toyota.

Can "CHANGE" help this situation?

金と女

 ちょっと前のhiroyukikojimaのエントリーに、こんな件があった。

その上で、ぼくとつれあいが話したのは、「小室は、ある時点から、借金を返す気はさらさらなくなっていたのではないか」という憶測だった。全く根拠はないのだけれど、報道される小室の行動からそういうことが推測された。そう考えると、マスコミが「転落」とか「凋落」とか「バブリィな生活から抜けられなかった」とか騒ぐけど、ぼくにはちょっと違う風景が見える。それは、「踏み倒しの合理性」ということだ。

 これを読んではたと思い出したのが、塩野七生。以下、inoueのメモをかねて。

ローマ人の物語 (4) ユリウス・カエサル-ルビコン以前

ローマ人の物語 (4) ユリウス・カエサル-ルビコン以前



 以下、塩野節から抜粋。

古今の史家や研究者たちにとって未だに謎であるもう一つのことは、カエサルがなぜあれほども莫大な額の借金を”したのか”よりも、なぜあれほども莫大な額の借金が”できたのか”、である。・・・
・・・借金が少額のうちは債権者が強者で債務者は弱者だが、額が増大するやこの関係は逆転するという点を、カエサルは突いたのであった。借金が少額であるうちは、それは単なる借金に過ぎず、債務者にとっての保証にはならない。だが、借金が増大すれば事情は変わってくる。多額の借金をもつことは、もはや「保証」を獲得したことと同じになる。多額の借金は、債務者にとって悩みの種であるよりも債権者にとって悩みの種になるからである。・・・

 これが、塩野なりの“不良債務者の読み解き”である。ちょっとスティグリッツとは違うようだが・・・というのも、”踏み倒しの合理性”では近未来的にリセットがかかるわけだが、カエサルの場合はリセットはかなり後でようやくかかるたぐいものだからである。詳細は本文参照のこと。


 なお、このあとの塩野節は以下のように続く。小室のケースと何が異なったのか、考えさせられる。

・・・たいした額になった理由は、彼が街道の修復や剣闘試合の主催や選挙運動などに使ったからである。だが、このようなことには大盤振る舞いしたカエサルも、自分の資産を増やすことには使っていない。・・・
・・・これでは反対派(=カエサル(民衆派)に対する元老院派)も、スキャンダルの火種にすることからしてむずかしい。私財には転用していない以上、金の出所には文句のつけようがないからである。また、金の入りのほうも、「強い債権者」であった彼のことだ。クラッスス(=当時の大金持ち)とて、カエサルにだけは貸しつづけるしかなかった。後世の研究者の一人も書いている。ユリウス・カエサルは、他人の金で革命をやってのけた、と。


 本エントリーを、金と女、とした理由は、塩野が借金の議論の前に愛人の議論を展開していたためである。これもやはり小室のケースとの差異が浮き彫りになりそうで興味深い。

つまり、カエサルはなぜあれほども女にモテ、しかもその女たちの誰一人からも恨まれなかったのか、ということである。
・・・・
重ねて言うが、女が何よりも傷つくのは、男に無下にされた場合である。・・・そして、女と大衆は、この点ではまったく同じだ。人間の心理をどう洞察するかに、性別も数も関係ないからである。

 英語の「世紀」(つづき)

 昨日の続きである。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

  ただし、フルで同意できたのは昨日のエントリーまで。実は本書を読了した後、無理矢理説得されたような気分が残り、水村の主張に完全に同意できたわけではなかった。違和感を感じた点をひとつ、メモしておきたい。

 中国語、そしてそれに関わるコンテンツについてである。
 inoueは化学技術に携わる仕事柄、学術論文とともに特許を読み込むこと、書くことが少なくない。この特許、最終的には各国別に成立していくものである。日本の化学産業にとって身近な外国は、アメリカ、欧州(EPですな)、そして中国である。先の2者は英語であるが、中国はれっきとして中国語である。このことは今の時点では、かならずしも中国語に堪能でなければならないことを意味しない。しかし、そのコンテンツに注意を払わなければならないこと、またそのような傾向が今後100年のオーダーであれば、この傾向が続くと考えてよいだろうとは想像がつく。

 このコンテンツはなにも技術的(水村にとっては技術=数式で記述できるもの、かもしれないが)なものに限らず、水村のフィールドである文学についても言えよう。この数年、中国の歴史物を題材とした映画が目につくように(レッド=クリフだってそうだ)なってきたが、今後中国古典の発掘、さらに中国の近代文学の再評価はおそらくこれからますます進むであろう。近代日本文学がグローバルな意味で人口に膾炙されるプロセスが第二次大戦後50年の間に進んだように、中国語のコンテンツも同じような扱いを受けるだろう。
 これらの作業の担い手となるのは広義の“中国人”(本土も、台湾も、香港も、さらには中国系アメリカ人も含めた)である。なるほどアウトプットであれば英語かもしれない。しかし、彼らのなかのやりとりはおそらく中国語でなされるであろうし、こと文学がテーマであれば、中国人は、アウトプットもおそらく中国語でものすであろう。読み手に事欠かないためである。
 水村はおそらく、「それは中国語という“現地語”である」と言いたかったのだろう。しかし、中国のみで13億、そのなかでいわゆるグローバルな市場経済に組み込まれるであろう人口は4-5億人との予測がある。これはアメリカと日本を加えた人口に匹敵しよう。そこで行われる営みを“ローカル”と言い切れるか、どうか。

 同じ議論が中東、中米において成り立ってもおかしくない。ただ、inoueの関知するところではないので触れない。
 
 英語は普遍語、この100年はそうであろう。だから21世紀、いや、もしかすると1950-2050年は英語の「世紀」なのだ。しかしそののち100年、そうと言い切れるとはinoueは思えない。もしそうなるとすれば、それは英語がそれら非西洋的なものを取り込み、さらに変質したときであると思う。
 グローバル化、インターネットは、ヨーロッパ400年の歴史において起きた“激動”を著しく短縮させた。今後、ますますそうなるであろう。

 末筆ながら、inoueは水村が言うような意味で日本語が「亡ぶ」とは考えていない。上記のような理由から、“非西洋国で唯一、主要な文学が成立していた”という但し書きは消えるにしても。ほかのさまざまな表現手段が発達してきたなかで、文学、がどう生き残るか、という課題はある。(映像、あるいはマンガに対して、文学がどう存在していくか、ということ)ただし、それはおそらく日本語だけではない。