金と女

 ちょっと前のhiroyukikojimaのエントリーに、こんな件があった。

その上で、ぼくとつれあいが話したのは、「小室は、ある時点から、借金を返す気はさらさらなくなっていたのではないか」という憶測だった。全く根拠はないのだけれど、報道される小室の行動からそういうことが推測された。そう考えると、マスコミが「転落」とか「凋落」とか「バブリィな生活から抜けられなかった」とか騒ぐけど、ぼくにはちょっと違う風景が見える。それは、「踏み倒しの合理性」ということだ。

 これを読んではたと思い出したのが、塩野七生。以下、inoueのメモをかねて。

ローマ人の物語 (4) ユリウス・カエサル-ルビコン以前

ローマ人の物語 (4) ユリウス・カエサル-ルビコン以前



 以下、塩野節から抜粋。

古今の史家や研究者たちにとって未だに謎であるもう一つのことは、カエサルがなぜあれほども莫大な額の借金を”したのか”よりも、なぜあれほども莫大な額の借金が”できたのか”、である。・・・
・・・借金が少額のうちは債権者が強者で債務者は弱者だが、額が増大するやこの関係は逆転するという点を、カエサルは突いたのであった。借金が少額であるうちは、それは単なる借金に過ぎず、債務者にとっての保証にはならない。だが、借金が増大すれば事情は変わってくる。多額の借金をもつことは、もはや「保証」を獲得したことと同じになる。多額の借金は、債務者にとって悩みの種であるよりも債権者にとって悩みの種になるからである。・・・

 これが、塩野なりの“不良債務者の読み解き”である。ちょっとスティグリッツとは違うようだが・・・というのも、”踏み倒しの合理性”では近未来的にリセットがかかるわけだが、カエサルの場合はリセットはかなり後でようやくかかるたぐいものだからである。詳細は本文参照のこと。


 なお、このあとの塩野節は以下のように続く。小室のケースと何が異なったのか、考えさせられる。

・・・たいした額になった理由は、彼が街道の修復や剣闘試合の主催や選挙運動などに使ったからである。だが、このようなことには大盤振る舞いしたカエサルも、自分の資産を増やすことには使っていない。・・・
・・・これでは反対派(=カエサル(民衆派)に対する元老院派)も、スキャンダルの火種にすることからしてむずかしい。私財には転用していない以上、金の出所には文句のつけようがないからである。また、金の入りのほうも、「強い債権者」であった彼のことだ。クラッスス(=当時の大金持ち)とて、カエサルにだけは貸しつづけるしかなかった。後世の研究者の一人も書いている。ユリウス・カエサルは、他人の金で革命をやってのけた、と。


 本エントリーを、金と女、とした理由は、塩野が借金の議論の前に愛人の議論を展開していたためである。これもやはり小室のケースとの差異が浮き彫りになりそうで興味深い。

つまり、カエサルはなぜあれほども女にモテ、しかもその女たちの誰一人からも恨まれなかったのか、ということである。
・・・・
重ねて言うが、女が何よりも傷つくのは、男に無下にされた場合である。・・・そして、女と大衆は、この点ではまったく同じだ。人間の心理をどう洞察するかに、性別も数も関係ないからである。