Better Place Japan - Exhibition

電気自動車のピットインをみてきた-technophobia
電気自動車の着脱式バッテリー交換ステーション実証実験を見てきた-科学と非科学の迷宮

Inspired by previous blog entries (vide supra), I visited the Exhibition in Yokohama that demonstrated their key elements of EV charging system.

Better Place

(In their website, you can see a picture of their exhibition - only the overview, though)

The demonstration of EV's battery exchange was about half an hour - ca. 20 people (including me - with daughter) attended, which was the final session of that day.
The session began with the introduction by TV, which show why they focused on EV as the solution of "post-petroleum" era. In their introduction, they pointed out that vehicles is responsible for ca. 25 % of total CO2 emission, and their EV solution would give a huge reduction on CO2 emmision. In the introduction, they stressed that they are focusing on the development of the infrastructure rather than EV or battery itself. They offer two types of infrastructure, that is, one is EV charging on-site, and battery exchange is another.
They also briefly introduced their business plan/progress around the world, which said that they will launched their service commercially in Israel and Denmark within 5 years. They have interest in Japan because of the integration of car industry, and technological/historical background on EV development (that is also the reason why they decided to demonstrate their concept for the first time).

After the introduction, the battery exchange was demonstrated twice. EV-car (by Nissan) ran the course (ca. 100 m), and the battery was exchanged for each run. They showed that it took ca. 95 seconds for the exchange, with full automated system (from setting the vehicle, discharging the used battery, putting in fully charged battery, and finish.) The session finished after the demonstration.

I talked with the guy at the exhibition after the demonstration -
1) Weight of the battery? -> ca. 250 kg.
2) How about the difference from the ordinary cars? -> Not so different. One of our key concept is "to achieve the same convenience as the ordinary cars".
3) Battery in detail? -> Will be presented in the press-release in May 13th. Anyway, it is not brand-new one.
4) The business depend on the contents of the resource of the electricity - if you rely on thermal power plant too much, you may come across with the increase of CO2 emmision as the efficiency is better for vehicle engine, how do you think?

  • >I agree with that point. Still, we will first focus on utilising over-produced electricity from renewable energy resources, such as solar, wind, etc. Eventually, we will rely on other electricities in the case we could not afford it. More than that, our customer has funded us because we offer a vision for "post petrol" era.

(Actually, I mentined the advantage of the use of "nuclear power", but he never mentioned it - probably, "Use renewable energy First" is one of their corporate culture.)
5) This project is supported by MOE (Ministry of the Environment). How will other ministries, such as METI, involve?

  • >This project is supported by MOE as it is focusing on the reduction of CO2, and the use of renewable energy. We will have to deal with other ministries as our project proceeds.

I enjoyed talking with you. Thanks for your information, Mr. Better Place!

inoueのアメリカ経験−3

2003年 1月
 入居していたマンションの配管破裂。1日ホテル住まいを余儀なくされる。
 “アタシの友達が弁護士やっててさあ・・・”同じマンションの住人。

2003年 1月
“このごろのアメリカの出入国管理はクレイジーだ”
 インド系の大学院生。

2003年 2月
 “おまえ、またオレの講義聴講するのか・・・聴きたければいいけれど”
 “昨年はよくわからなかった(いや、寝てたんですけどね・・・)ので、もう一度聴きます”
留学受け入れ先の教授の講義を再聴講する。ちなみに、聴講="sit-in"。

2003年 3月
 国際会議エントリー。人生初の国際会議発表を、口頭発表にしようと決断する。

2003年3月22日
 駐在員の規則:“政治的な集会等が行われているところに、近づかないこと”
・・・生活空間なのに、どうしろと?
 まずはこれ、“さすがアメリカ”と思っていたら・・・

"U. S. A! U. S. A!"・・・わかりづらいが、この人たちは、“兵隊さんに感謝しよう”とデモしている。


・・・何も言うことはないですね。さすが、マサチューセッツ

2003年 4月
 娘生まれる。
“Caesarianじゃなかったら、出産後の病院滞在時間は48時間まで”
 病院規則。

2003年 6月
 一時帰国。帰任予定先などへ挨拶。

2003年 8月
 家族の帰国まで1ヶ月を切る。慌てて近場で方々旅行ドライブ/散歩に出かける。

@Sudbury, MA

@Harvard Yard
 この頃から、10時にラボに行く→18時頃にいったん帰る→9時頃にまたラボに行く→2時頃に帰る、がルーチンになる。

2003年 8月中旬
“私たちはBushを支持しているの。だって、私たちのことを考えてくれているんですもの”
 あるユダヤ系の婦人。披露宴(2002年8月に、ボストンの友人/知人を招いて行った)写真/ビデオで世話になった。

2003年 9月上旬
 国際会議発表の予聴会。準備不足でぼろぼろ。ボスはかなりひやひやした・・・はずである。ただ、いかにぼろぼろ“全然ダメだ!”ではなく、“これとあれは良かった。あそこはこうすると良い”というアドバイス法。まあ、inoueがボスから給与をもらう身であったら“おまえは、クビだ!”と言われたかもしれない、といまならばいえる。

2003年 9月9日
 国際会議発表@スイス。本番では15分の原稿を覚えて一気にしゃべった。“何事も、締め切りまでには何とかなる”ことを覚える。

2003年 9月13日〜14日
 一足先に帰国する妻と子供が挨拶回り&apple picking。

 これは当時のラボのホワイトボード。(inoueが描いたものではない。念のため)

2003年 9月中旬から下旬
 撤収作業(家具売り払い、車売り払い、マンション撤収)と実験と。1日が30時間くらいはほしかった。

2003年10月1日
 最後の測定を、2003年10月1日早朝に終える。この日に見た朝日がとても感慨深かった・・・が、カメラのメモリを読み違えて、これはinoueの記憶にのみとどまっている。
 ボストンを去る。ただし、乗り継ぎトラブルでシカゴで一泊。夕方は10℃くらい。とても寒かった。

2003年10月3日
 日本着。アメリカ滞在が終わった。


・・・追記
2004年 7月
 現在の職場に移る。

2005年 1月
“I am not a US citizen but I was praying for Kerry.”
 クリスマスメッセージ。ボストンのさる知り合いの先生より。

・・・次でけりをつける予定。

inoueのアメリカ経験−2

2001年 8月
 スタマ(Star Market)デビュー。カレールーもサランラップもおいていないこと、肉の売り方が違うこと・・・にショックを受ける。でも、果物/野菜コーナーは愉しかった。いまでも、ジュースはアメリカのもんがおいしいと断言する。

2001年10月
 Cartoon ChannelでCowboy Bebopを知る。
この年のノーベル化学賞が、野依先生、Knowles、Sharpless。お題は、不斉合成触媒プロセスの開発。

2001年11月
 MRS(Materials Research Society)年会で、旧知の技術者(@西海岸、当時は計算化学からさらにはみ出していこうとしていた)に再会し、昼ご飯をごちそうになる。新しく会社を作ろうとしていると打ち明けられた。

2002年 1月
 “アメリカの大学院生は、反応スキームをとにかくあーだこーだ議論したがる。手を動かしてやった方が早いだろうに”(日本人留学生の送別会にて。ちなみに、有機化学のラボの話)

2002年 6月
 妻の恩師(留学経験あり)来宅@ボストン。
“自分は、アメリカ留学から帰国するときに、勉強法は捨てようと思った”真意は、膨大なテキストの読解量をこなすのではなく、一つのテキストを深読みする、というスタイルを指向した、ということ。(だと思う)

2002年 7月
“彼の英語はいまいちねえ。冠詞の使い方がなってないじゃない”
ちなみに、彼=米国の大学のfull Professor(アジア系)。発言主はスペイン人の大学院生。セミナー後の会話。
 なお、これに似たバージョンでこんな会話もあった。
“tomoyaの英語は、私の日本語より上手だ”(inoueと、留学の受け入れ先の先生との会話。ただし2004年頃。)

2002年 9月
 この頃までには英語コンプレックスがかなり解消。レベルはともかく、言いたいことをいうようになる。一念発起して、学部生の“熱/物質移動”の講義を聴講する・・・何せ、前年は大学院生向けの講義だったうえ、長時間の英語に耐えられず撃沈していたもので。

2002年10月
 実験がはかどり出す。“cool!”といわれるような結果も出だす。
企業派遣の留学が、2年であることの恩恵を知る。
 apple pickingに行く。

2002年10月末
 “赤ちゃんの性別、知りたい?女の子よ、女の子!”
(かかりつけの産婦人科にて)

2002年11月
 apple ciderとクランベリージュースの味を覚えた・・・が、クランベリージュースは、砂糖をべたべたに入れたなれの果てとあとで知る。
 調子に乗ってクランベリー(生)を買う。レジで、“おまえ、これ食べるのか?”と目を丸くされ、あとでその意味を知った(@Bread and Circus)。
 秋、深まる。

 
2002年11月、Thanksgivingの日
 妻の友人宅にThanksgivingでお呼ばれ。七面鳥の丸焼きを食す。たしか・・・雪だった・・・

2002年12月
 MRS年会期間中にも雪が降る。この冬は雪の当たり年(含む学校閉鎖)で、前年は凍らなかったCharles Riverも凍結した。

続く

inoueのアメリカ経験−1

 inoueは2001年8月から2003年9月まで、企業派遣でアメリカの大学に留学していた。id:tsugo-tsugoのhaikuに触発されて振り返ってみる。

2001年8月 アメリカ入国。
 後にも先にもない、ビジネスクラスへのアップグレード。えらく贅沢気分で乗り入れた。

2001年8月末 留学先の日本人会にて。
“アメリカは、西海岸と東海岸で全然違いますよ。西海岸はクレイジーですね”

2001年9月11日。
 あの日。inoueはラボの実習で閉じこもっており、昼前に出てきたときに学生がたむろしてテレビにかじりついていた理由が飲み込めなかった。(WTCが崩れていく絵を見て、それが現実のものとは思えなかった。)結果、派遣元の会社への連絡も遅れた。嵐に渦中にあるものは、嵐に対して鈍感である、という実例でもあるし、危機意識がなかった、といいきっても良い。inoueが外交官に不向きなことを示した一例。
 のち、日本企業は軒並みアメリカ出張の禁止措置が出る。今日のswine fluに対する対応を見て、dejavu感を禁じ得ないのはinoueに限るまい。

2001年10月
 街行く車が、ことごとく星条旗を掲げ出す。
 アフガニスタン空爆はじまる。

2001年11月
 将来の妻に出会う@さるパーティー。日本では絶対に接点がなかったと、断言できる。

2001年11月23日
 Thanksgivingでは、軒並み店が閉まってしまうことを実感する。(蘆花@MassAve=広中平祐センセもご愛用だったらしい。2005年頃?廃業=は通常通り営業。CVSもしかり)

2001年12月
 Nutscrackerが、日本でいうところの忠臣蔵であることを知る。

 世話になっていた教授の前に、Ph. D. Candidateの学生とともにまみえる。自分の英語力のつたなさを思い知った。

2001年12月24日
 この日もまた、すべての店が閉まってしまうことを実感する。

2001年12月31日
 新年をNYで迎える。某所でいまは亡き筑紫哲也を見かけた。

2002年1月
 学会でLas Vegasに行く。ホテルの安さに感動する。・・・まもなくその仕組みを知るに至る。
留学生のビザ制度がこのへんで変更になった・・はず。それまでの"IAP-66"から、新しい書式にせいとの通達あり。

2002年2月
 展示会でLAに行く。ボストンとのあまりの気候の違いにショックを受ける。

2002年3月
 学会でNew Orleansに行く。今となっては、あのKatrina前であったことになる。

 イラク戦争始まる。

2002年4月
 ボストンにも春が来た。

2002年5月
 "Mission Accomplished"

2002年6月
 ケンブリッジ市内で結婚する。

2002年7月
 アメリカではじめての4th of July。バーベキューにおよばれ。

 Tanglewoodに行く。
・・・続く。

科学者の教育、ねぇ

 何日か前の大隅先生のエントリー:
2日目終了&科学者を育てるには

 inoueは大隅センセの普段ものされてるもの(含むブログ)を拝見し、尊敬申し上げているのだが、もっともらしいだけに違和感を引きずってしまうんだな、これは。 森羅万象何でもそうなのだろうけれど、割り切る、のは案外難しい。教育もしかり。教育される側がそもそも多種多様なのだから。
 大隅センセが、上掲のブログで引き合いに出されていた例はいずれも“渡り歩き”系であった。それでもって“専門教育前倒し”を斬っているわけだが、ちょっとそれは短絡ではないか。“専門教育の前倒し”に恩恵を受ける人たちだってあるわけだし(Feynman、Landau、Woodwardなんていう人たちは、たぶんそのような教育が活きる人たちだったのだろう)、そもそも皆が皆その“前倒し”プログラムに乗っかるわけではないだろうに。
“皆、それに乗っかるべきだ”、となる風潮は問題であろう。しかし、問題となるのはそのような風潮なのであって、専門教育の前倒し、というのは多様な“教育される側”に答えるひとつのオプションだと思うのだけれど。

 もう一つあった。
 教員の数を4倍にして・・・という気持ちはわからないでもない。しかし、それは学費の高騰として学生の負担としてはね返る、という点についてはいかがだろうか?

 いみじくもkaz_atakaがまとめていたが、

日本の大学の資金力のなさはどこから来るのか?:国内大学強化に向けた考察2
 
 アメリカのいい大学ともなれば、日本の大学の学費の10倍である。学生が将来の稼ぎをそこに充当するのである。それがworthである、といいきれる教育というのは、質とその効果において余程の覚悟が必要ではないか。しかも、この10倍の学費、は、否応なく格差の問題を引き起こすだろう。・・・根は深い。すっきりした“答え”は、難しい。

ホームページを立ち上げた

 前任者から引き継いだ学会の研究会のホームページを立ち上げた。なお、ビルダーはオーソドックスに(?)

IBM ホームページ・ビルダー13 通常版

IBM ホームページ・ビルダー13 通常版

のお試し版をダウンロードして用いた。休日にそんなことやるんじゃないよ、といわれそうだが、休日にやってよかった。何とか使えるようになった。

 ついでに、自分のホームページも開設した。自分の研究ネタはこちらに移していくことにする。

Fernando Lima

 昨年、Sarah BrightmanのCDがリリースされた。そのなかの“Ave Maria”がとても新鮮に聴こえた。

冬のシンフォニー(通常盤)

冬のシンフォニー(通常盤)

 この曲をduetしていたのがFernando Lima。カウンターテナーの歌手(日本で言えば米良美一にあたる。ただ、米良より若干声は低い、というかより男声に思える)で、スペイン語の歌が主。なお、この“Ave Maria”はFernando Limaのオリジナルらしい。

↓こんな感じ。なお、これはメキシコのテレビが元ネタ。

 なお、ちょっとメッセージ性が強い動画だが、カラオケに使うならこっちかも。歌詞がついているので。

(お気に入りと言えば、2番目の動画の真ん中(2分30秒前後)に出てくる”曇天にたたずむ聖母子像”、はよい。聖マリアの力強い母性がにじみ出ている。誰の絵なんだろう?)

 ここからはちょっと“英語の世紀”じみてしまうのだが、Fernando Limaが世に出たきっかけはSarah Brightmanとの共演であっただろう。(少なくともinoueにとってはそうだった)しかし、同時に彼が英語で歌を歌っていたら、ここまでinoueの共感、というか興味を引きつけたかどうかは疑問である。
 言い換えれば、英語(圏)で認知されるためのタグは、情報の発信強度として他言語ではない強さ、というかインパクトをもつ。しかし、そこで発信されるコンテンツは、必ずしも英語に束縛されなくてもよいのではないか、などと言うことも考えたりしている。