英語の「世紀」(つづき)

 昨日の続きである。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

  ただし、フルで同意できたのは昨日のエントリーまで。実は本書を読了した後、無理矢理説得されたような気分が残り、水村の主張に完全に同意できたわけではなかった。違和感を感じた点をひとつ、メモしておきたい。

 中国語、そしてそれに関わるコンテンツについてである。
 inoueは化学技術に携わる仕事柄、学術論文とともに特許を読み込むこと、書くことが少なくない。この特許、最終的には各国別に成立していくものである。日本の化学産業にとって身近な外国は、アメリカ、欧州(EPですな)、そして中国である。先の2者は英語であるが、中国はれっきとして中国語である。このことは今の時点では、かならずしも中国語に堪能でなければならないことを意味しない。しかし、そのコンテンツに注意を払わなければならないこと、またそのような傾向が今後100年のオーダーであれば、この傾向が続くと考えてよいだろうとは想像がつく。

 このコンテンツはなにも技術的(水村にとっては技術=数式で記述できるもの、かもしれないが)なものに限らず、水村のフィールドである文学についても言えよう。この数年、中国の歴史物を題材とした映画が目につくように(レッド=クリフだってそうだ)なってきたが、今後中国古典の発掘、さらに中国の近代文学の再評価はおそらくこれからますます進むであろう。近代日本文学がグローバルな意味で人口に膾炙されるプロセスが第二次大戦後50年の間に進んだように、中国語のコンテンツも同じような扱いを受けるだろう。
 これらの作業の担い手となるのは広義の“中国人”(本土も、台湾も、香港も、さらには中国系アメリカ人も含めた)である。なるほどアウトプットであれば英語かもしれない。しかし、彼らのなかのやりとりはおそらく中国語でなされるであろうし、こと文学がテーマであれば、中国人は、アウトプットもおそらく中国語でものすであろう。読み手に事欠かないためである。
 水村はおそらく、「それは中国語という“現地語”である」と言いたかったのだろう。しかし、中国のみで13億、そのなかでいわゆるグローバルな市場経済に組み込まれるであろう人口は4-5億人との予測がある。これはアメリカと日本を加えた人口に匹敵しよう。そこで行われる営みを“ローカル”と言い切れるか、どうか。

 同じ議論が中東、中米において成り立ってもおかしくない。ただ、inoueの関知するところではないので触れない。
 
 英語は普遍語、この100年はそうであろう。だから21世紀、いや、もしかすると1950-2050年は英語の「世紀」なのだ。しかしそののち100年、そうと言い切れるとはinoueは思えない。もしそうなるとすれば、それは英語がそれら非西洋的なものを取り込み、さらに変質したときであると思う。
 グローバル化、インターネットは、ヨーロッパ400年の歴史において起きた“激動”を著しく短縮させた。今後、ますますそうなるであろう。

 末筆ながら、inoueは水村が言うような意味で日本語が「亡ぶ」とは考えていない。上記のような理由から、“非西洋国で唯一、主要な文学が成立していた”という但し書きは消えるにしても。ほかのさまざまな表現手段が発達してきたなかで、文学、がどう生き残るか、という課題はある。(映像、あるいはマンガに対して、文学がどう存在していくか、ということ)ただし、それはおそらく日本語だけではない。