inoueのアメリカ経験−3

2003年 1月
 入居していたマンションの配管破裂。1日ホテル住まいを余儀なくされる。
 “アタシの友達が弁護士やっててさあ・・・”同じマンションの住人。

2003年 1月
“このごろのアメリカの出入国管理はクレイジーだ”
 インド系の大学院生。

2003年 2月
 “おまえ、またオレの講義聴講するのか・・・聴きたければいいけれど”
 “昨年はよくわからなかった(いや、寝てたんですけどね・・・)ので、もう一度聴きます”
留学受け入れ先の教授の講義を再聴講する。ちなみに、聴講="sit-in"。

2003年 3月
 国際会議エントリー。人生初の国際会議発表を、口頭発表にしようと決断する。

2003年3月22日
 駐在員の規則:“政治的な集会等が行われているところに、近づかないこと”
・・・生活空間なのに、どうしろと?
 まずはこれ、“さすがアメリカ”と思っていたら・・・

"U. S. A! U. S. A!"・・・わかりづらいが、この人たちは、“兵隊さんに感謝しよう”とデモしている。


・・・何も言うことはないですね。さすが、マサチューセッツ

2003年 4月
 娘生まれる。
“Caesarianじゃなかったら、出産後の病院滞在時間は48時間まで”
 病院規則。

2003年 6月
 一時帰国。帰任予定先などへ挨拶。

2003年 8月
 家族の帰国まで1ヶ月を切る。慌てて近場で方々旅行ドライブ/散歩に出かける。

@Sudbury, MA

@Harvard Yard
 この頃から、10時にラボに行く→18時頃にいったん帰る→9時頃にまたラボに行く→2時頃に帰る、がルーチンになる。

2003年 8月中旬
“私たちはBushを支持しているの。だって、私たちのことを考えてくれているんですもの”
 あるユダヤ系の婦人。披露宴(2002年8月に、ボストンの友人/知人を招いて行った)写真/ビデオで世話になった。

2003年 9月上旬
 国際会議発表の予聴会。準備不足でぼろぼろ。ボスはかなりひやひやした・・・はずである。ただ、いかにぼろぼろ“全然ダメだ!”ではなく、“これとあれは良かった。あそこはこうすると良い”というアドバイス法。まあ、inoueがボスから給与をもらう身であったら“おまえは、クビだ!”と言われたかもしれない、といまならばいえる。

2003年 9月9日
 国際会議発表@スイス。本番では15分の原稿を覚えて一気にしゃべった。“何事も、締め切りまでには何とかなる”ことを覚える。

2003年 9月13日〜14日
 一足先に帰国する妻と子供が挨拶回り&apple picking。

 これは当時のラボのホワイトボード。(inoueが描いたものではない。念のため)

2003年 9月中旬から下旬
 撤収作業(家具売り払い、車売り払い、マンション撤収)と実験と。1日が30時間くらいはほしかった。

2003年10月1日
 最後の測定を、2003年10月1日早朝に終える。この日に見た朝日がとても感慨深かった・・・が、カメラのメモリを読み違えて、これはinoueの記憶にのみとどまっている。
 ボストンを去る。ただし、乗り継ぎトラブルでシカゴで一泊。夕方は10℃くらい。とても寒かった。

2003年10月3日
 日本着。アメリカ滞在が終わった。


・・・追記
2004年 7月
 現在の職場に移る。

2005年 1月
“I am not a US citizen but I was praying for Kerry.”
 クリスマスメッセージ。ボストンのさる知り合いの先生より。

・・・次でけりをつける予定。