科学者の教育、ねぇ

 何日か前の大隅先生のエントリー:
2日目終了&科学者を育てるには

 inoueは大隅センセの普段ものされてるもの(含むブログ)を拝見し、尊敬申し上げているのだが、もっともらしいだけに違和感を引きずってしまうんだな、これは。 森羅万象何でもそうなのだろうけれど、割り切る、のは案外難しい。教育もしかり。教育される側がそもそも多種多様なのだから。
 大隅センセが、上掲のブログで引き合いに出されていた例はいずれも“渡り歩き”系であった。それでもって“専門教育前倒し”を斬っているわけだが、ちょっとそれは短絡ではないか。“専門教育の前倒し”に恩恵を受ける人たちだってあるわけだし(Feynman、Landau、Woodwardなんていう人たちは、たぶんそのような教育が活きる人たちだったのだろう)、そもそも皆が皆その“前倒し”プログラムに乗っかるわけではないだろうに。
“皆、それに乗っかるべきだ”、となる風潮は問題であろう。しかし、問題となるのはそのような風潮なのであって、専門教育の前倒し、というのは多様な“教育される側”に答えるひとつのオプションだと思うのだけれど。

 もう一つあった。
 教員の数を4倍にして・・・という気持ちはわからないでもない。しかし、それは学費の高騰として学生の負担としてはね返る、という点についてはいかがだろうか?

 いみじくもkaz_atakaがまとめていたが、

日本の大学の資金力のなさはどこから来るのか?:国内大学強化に向けた考察2
 
 アメリカのいい大学ともなれば、日本の大学の学費の10倍である。学生が将来の稼ぎをそこに充当するのである。それがworthである、といいきれる教育というのは、質とその効果において余程の覚悟が必要ではないか。しかも、この10倍の学費、は、否応なく格差の問題を引き起こすだろう。・・・根は深い。すっきりした“答え”は、難しい。