デジャ=ヴ

 一年(以上)経ったのに、いまだはてな市民になっていないorz
 首がまわりづらい時期であることを承知で、inoueは久しぶりに映画を見に行った。独身のころは”趣味=映画鑑賞”といってもいいくらい見ていたのだが、一人で行ったのは何年ぶりのことか。
 見た映画は↓。東京で見損ねたあだを、くしくも仙台で取る結果となった。

シアトリカル

 見てよかった。われながら、映画を選ぶセンスならば衰えていなかったことに安心。これなら、まだ趣味に”良画(映画)を鑑賞すること”くらいは書けそうだ。まあ、日本映画批評家大賞ドキュメンタリー作品賞を取るだけの生きのいい映画ではある。
 唐十郎+唐組という良質のネタを、大島新が筋の良い包丁裁きで料理した、といったことが勝因としても。(ネタ、と書いたら唐十郎+唐組は怒るかもしれないが)
 実際、映画の中には好きなせりふがいくつかあった。

”食うために、芝居をする”
”おとうさんは、すごい人”
”胸騒ぎがするような芝居がしたい。俺がじゃない。むこうが”
・・・・
”自分を演じることは、難しい”

 帰り道に、ラーメンを待ちながら、すすりながら思い返していた。見てよかった、だけでは割り切れない。デジャ=ヴ感はいったいどこから来ていたのか?

 inoueには、化学産業に身をおいた経験がある。それこそ独身のころ、工場を新設するための開発を行っていたし、隣には一足先に”工場”となるべく開発現場から卒業していったプロジェクトもある。そう、工場を”つくる”ときに特有の殺気立ち方(inoue自身は未だ縁がないのだが・・・)が、唐組と重なって見えてきたのである。
 そう見えてくると、映画は本来パラノイアたる唐十郎とそれに引きずりまわされて、ついでに自分もパラノイアとなっている唐組、そして監督たる大島新の物語のはずが、何ともinoueにとって懐かしい物語に変わってきたのである。
 映画の中で、大島は唐十郎の”スイッチ”を入れてしまう場面があるが、inoueもわけのわからないうちに地雷を踏んだことが一再ではない。
 もちろん、似て非なところがあることは認めよう。唐組は、どこかで唐十郎にほれてしまった人たち、そしてそこから抜けられない人たちの集まりである。勝間和代が、唐組をどう評するのか、想像するとちょっとほほえましい=交わらないような気もするけれども。会社はそれよりははるかに多種多様な人の集まりであり、そこには”惚れる”プロセスは必ずしも必要ではない。ただ、そうはいっても工場を立てるとき、それを先導する人は必然的に唐十郎よろしくパラノイアたることが求められると思うし、少なくともinoueの見た範囲ではそうであった。梅田がいつかAndy Groveを引き合いに出したとき、"Only the Paranoid Survive"といっていたと思うが、なにやら立派に唐十郎の世界につながりそうではないか。
 いい仕事、モノになる仕事の、それが本質なのかもしれないが、というより、そうでない仕事は生き延びられないということか。

 大島は、唐十郎の”演技”のにおいを日常に感じたために、唐十郎+唐組で映画を撮ろうとしたという。ただ、その世界は案外inoueにとってあながち他人の世界ではなかった。inoueが”観てよかった”と思ったのは、むしろこのデジャ=ヴ感であるとおもう。
 翻って、大島にとってのこの映画は、彼自身が”立った”証拠であろう。”立った”人間が次に何をinoueに見せるのか、楽しみである。大島は七転八倒の思いかもしれないけれど。
 やや内輪な言い方をするならば、(元)グレー総務長には、これからも”見せて”もらいたいものである。