Robert N. Noyceの伝記

 2年前、こんな本が出版されていた。2005年の秋、海外出張したときについでに購入した。この連休中にようやく読了した。

The Man Behind The Microchip: Robert Noyce And The Invention Of Silicon Valley

The Man Behind The Microchip: Robert Noyce And The Invention Of Silicon Valley

 inoueの学生時分、“電子立国 日本の自叙伝”というNHKスペシャルが放映されていた。当時は日本の半導体産業が世界をリードしていた時代であり、半導体産業がいかに興り、さらには日本の半導体産業がいかに当時の地位を築き上げたか、ということを語りあげたドキュメンタリーであった。
 名前を知ったそのとき以来、Noyceはinoueにとってのヒーローである。それ以来、和洋書問わずNoyceの伝記を探したのだが見当たらず、2年前のさる書評で本書を知って購入した。伝記が見当たらなかった、というのは、現役時代に急逝した(まさに、“電子立国 日本の自叙伝”番組のための取材で、Noyceへのインタビューが行われる直前だった、と相田洋は言及している)こともさることながら、Noyceが過去を記録することに対し無頓着だったことにも起因していよう。著者の資料収集の努力の跡が、巻末の出典リストとインタビューリストにあらわれている。
 本書を読んで、inoueがはじめて知ったことも少なくない。たとえば梅田の尊敬するAndy Groveとの関係にしても、NoyceとMooreの関係に較べるとギクシャクしがちであった。Groveはおそらく、Noyceが“わからなかった”に違いない。それが最もよくあらわれたのが、70年代前半に、NoyceとTed Hoff(実際に手を動かしたのはTed Hoffだが)が立ち上げつつあったマイクロプロセッサーのテーマに対するGroveのあしらい方にあらわれていると思う。ここで描かれるGroveは、まさに選択と集中の権化である。
 反面、伝記に書かれるNoyceには、選択と集中というフレーズはそぐわない。NoyceはMooreの評するところの”wild expansionist”であり、FairchildIntelを立ち上げた原動力はここにあったといってよい。NoyceはIntelの経営のかたわら、あるいはそこの経営を退いてのちに、成長の見込みがきわめて怪しいベンチャーに対してでさえ気前よく投資していくのだが、そういったスタイルも“wild expansionist”の別のあらわれ方といってよいであろう。いつぞや梅田が正しい大人の振舞い方を何回か論じていたが、Noyceの振舞い方はまさに手本のようなものであろう。ちなみに、そのように投資先のなかで“ものになった”数少ない投資先の一つがAMDであった、というのはなんともほほえましい結末であると思う。
 NoyceとGroveの間に優劣があるわけではない。ただ、ベンチャーの立上げに際して必要なのはNoyceのような人間であり、それを正しく経営していくにはGroveのような人間が必要だ、ということはいえるのではないだろうか。FairchildにはGroveがいなかったがIntelにはGroveがいたということが、Noyceがかかわったこの2社の行方を分けたといえよう。Noyceは、Groveが自分と相容れない部分があることを知りながら、Groveに経営を全面的に任せられるだけの度量があった。このことはIntelにとって幸いであった。梅田は以前のブログで、ベンチャー経営者としてGroveを捉えている節があった思うが、inoueはむしろNoyceがベンチャー起業者であり、Groveのセンスは企業の大小を問わず経営者のものであると思う。あと付記するとすれば、NoyceとHoffのマイクロプロセッサーがいまのIntelのビジネスの源流であるということ。もし70年代にこのテーマがIntel社内でつぶれていたら、おそらくいまのIntelはなかったであろう。

 過去がいわばすさまじい速さで“大昔”になっていくシリコンバレーの風土の故か、業績のわりにはNoyceの影が薄いような気がする。シリコンバレー精神は語られるとき、それを形成した人物像が欠けているのではないか。inoueの思い入れも大だが、本書の副題が示すとおり、Noyceはまさにシリコンバレーを創リ、その精神を体現したといってよい存在であると思うだけに、もちょっと知られてもよいのではと思う。
 なお、Noyceは晩年、日本の半導体産業の伸長ぶりに対し警戒感を隠さなかった。日本の会社との付き合いが長かっただけに、自分がいわば“敵に手を貸してしまった”との思いが強かったとも言う。Noyceが存命であれば、この視点は幸か不幸かかなり修正されていたのではないか。